21g http://www.21grams.jp/ 監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 脚本:ギジェルモ・アリアガ 出演:ショーン・ペン ナオミ・ワッツ ベニキオ・デル・トロ (2003 米) 「命が消えるその時に、人は21グラムだけ軽くなる。」 これは一体、何の重さなんだろう。 ナオミ・ワッツ演じるクリスティーナは、ある日突然夫と二人の幼い娘をひき逃げ事故で失ってしまった。 愛する夫の心臓は、数学者ポールに移植される。 これによって、あと一カ月と宣告されていたポール(ショーン・ペン)の命は、ぎりぎりのところでつながった。 そしてクリスティーナから一瞬にして何もかもを奪ったひき逃げ犯、それがベニキオ・デル・トロ演じる前科者のジャック。 けれど彼は妻と二人の子ども達とともに、敬虔なクリスチャンとして静かに暮らそうとしていた矢先のことだった。 一瞬のひき逃げ事故によって、運命がすっかり変わってしまった3人の男女のその後の人生は、それぞれに過酷なものだった。 事故の知らせを受けて病院に駆けつけたクリスティーナが、主治医に愛する家族3人の死を次々と知らされ、泣き崩れる姿は息が詰まりそうになるほどの演技だった。 ナオミ・ワッツだけではなく、この3人はそれぞれに背負った、全く違った種類の荷物を、素晴らしい演技力で観ている者に実感させる。 だから、誰か一人に感情移入する事も、誰か一人を憎む事も、誰か一人に同情する事もできない。 まるで、『神』になったかのように。 考えてみれば、平凡な幸せを明日もあさってもまたその次の日も続けていく事は、奇跡のようなバランスの上に成り立っている。 ひとたび何かの力がそこに加われば、なにもかもバランスを失ってくずれてしまうような、そんな儚いものだ。 その何かの力とは、愚かな人間の『過ち』なのだろう。 私達が日々繰り返し犯す『過ち』。 それは大なり小なり、誰かを傷つけ誰かの人生を狂わせ、自分自身の平凡な幸福をも壊してしまう。 そういう人間の愚かさを哀れみ、慈しみ、どんなに残酷な現実も目を逸らさずにじっと見つめている。 その神の目を、この3人の名演技によって私達は体験することが出来る。 ナオミ・ワッツの表現する喪失感と、ベニチオ・デル・トロの自分の罪から目を逸らさずに葛藤する演技は、壮絶なものがあった。 演出も、脚本も、撮影の力も手伝ってのことではあるだろう。 けれど、かつて同じような境遇のストーリー設定はたくさん観たけれど、彼らの表現はそのどれとも全く違った独自のものだった。 表現の世界は深くて広い。限界がないのだなぁと、つくづく感じさせてくれる。 それから、この映画の時間軸は、ばらばらなのでとても解りにくい。 事故の前と後、シーンがあちこちに飛ぶのだ。メメントを思い出させる。 シーンごとに3人それぞれの人生をえがくのに加え、この時間軸のせいでストーリーを追うのが難解になっている。 私は、だいたいのあらすじを把握してから観たので混乱はしなかったが、もし何も知らずに見始めていたら、途中でストーリーが追えなくなっていたかも知れない。 こういう作り方をする必要性…、もしも過去から現在に時間通りに追った構成だったらどうだったろう…と考えてみて、何となく監督の意図が解った気がした。 時間軸をバラバラにすることによって、例えば事故前の美しくはつらつとした妻クリスティーナと、事故後の憎しみと悲しみでやつれきった凄惨な姿との対比が、余計に際だつのは確かだ。 そして、一瞬の出来事に、こんなにも翻弄され、変わり果ててしまう人間の無力さをも、この方法によって、より解りやすく表現できているように感じる。
けれど、人は翻弄されたままでは終わらないのである。 |