Breaking the Waves 監督 :ラース・フォン・トリアー 出演 : エミリー・ワトソン ステラン・スカルスゲールド カトリン・カートリッジ ■ドグマ95「純潔の誓い」■ (1)撮影はロケのみで、小道具やセットは持ち込んではならない。 (2)映像とは別なところで音楽を作り出してはならない。 (3)カメラは手持ちでなければならない。 (4)フィルムはカラーで、人工的な照明は禁止。 (5)オプティカル処理やフィルター使用禁止。 (6)表面的なアクションは禁止。 (7)時間的、地理的な乖離は禁止。(時間軸をいじるなど) (8)ジャンル映画(アクション、SFなど)は認めない。(流れが枠にはまり、純粋さが失われるから) (9)フィルムは35ミリ(スタンダー ド)に限る。 (10)監督の名前をクレジットにのせてはならない。(作家性を排除するため) これが、ラース・フォン・トリアー監督が1995年に作った映画制作家達のグループ、「ドグマ95」の主義であるらしい。 原点回帰でもあり、まるでハリウッドへのあてつけのようでもある。 ドグマ95の、こうしたストイックとも言える主義主張は、主人公ベスが住むスコットランドの閉鎖的な街の人々の姿にオーバーラップする。 熱心なキリスト教徒で、それも原理主義の、厳しい戒律を日常生活の中で守り続けているような人々。 信仰に厚く教会を中心に日々を送り、けれどある意味では酷く排他的で不寛容な人々は、教会の戒律に背いた者を追放し、結果的に破滅に追いやる。 彼等は死後も地獄に堕ちることを約束される。 『映画から不純物を取り除き、登場人物の心の動きの構図を保ち、作家性を重視する』というドグマ95の刺激的な試みも、この街の排他的な人々のようにただ頑ななだけのものになれば、自己満足で終わってしまうのかもしれない。だが、監督はベスの住む街の長老達に対し批判的な描き方で問題提起をしている。 ベスはそんな環境の中、厳しい家庭で育ち、特に信仰の厚いキリスト教徒となり、しかも神と対話をする力を持っていた。 けれど、ヤンと結婚してすぐ彼が仕事中の事故で下半身不随の身体となってから、彼女の信仰のあり方は変わっていく。 ヤンはよそ者であり信仰を持たないが、ベスを愛する気持ちは深い。 そのため、事故で不能になったヤンがベスに求めたのは、ベスが愛人を作ることだった。 ヤンへの真の愛情とはなんなのか、信仰とは…悩むベスの出した結論は…。 ヤンのこの信じがたい要求は投薬による妄想とされるが、実際はベスの人生を自分のために無駄にしたくないというヤンの愛情なのだそうだ(監督の解説による)。 それにしても設定としてかなり強引な発想で、ここで拒否反応を起こしてしまうとここから先この映画を見る気が失せてしまうだろう。 監督が描きたかったのはただ、型どおりではない、ヤンとベス二人だけの独自の愛の形だったのだと思うが。 "stupid"…ベスはそう言われながらも彼女のやり方を貫き通し、かつての居場所を失っていく。 ベスを理解出来ないままに、終始彼女を支え続けていくのはベスの義姉のドドである。 この役を演じているカトリン・カートリッジという女優の存在感がこの映画を要所要所で引き締めている。 彼女もまた亡くなったベスの兄のところに嫁いできたよそ者だったが、強く思慮深い女性で最後はベスの理解者となる。 この映画の中で、私はこの人が一番好きだ。 宗教とは集団洗脳か。 戒律とは悪を生み出し排除するための手段なのか。 そんなことを考えさせられる。 少なくとも信仰のない私にとって、神は決して人を罰しない。 人を罰するのは、人だけだ。 ベスのやった行いに対する監督なりの是非は、この映画のラストシーンにその答えを見つけだすことが出来る。 人それぞれに評価の別れるであろうストーリーだ。 (2004/9/21) |