the brown bunny
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監督/脚本/美術/カメラ : ヴィンセント・ギャロ 
出演 : ヴィンセント・ギャロ  クロエセヴィニー
音楽 : デッド・カーソン ジェフ・アレクサンダー
    ゴードン・ライトフット
    ジャクソン・C・フランク
    マルティス・アッカルド・カルテット


 2003年のカンヌ国際映画祭で前代未聞の激しいバッシングに晒された問題作。
・・・激しいバッシング!! なんでそこまで・・・?
と、思いながら、ヴィンセント・ギャロの創ったものだからという理由だけで映画館に足を運んだ。
見終わって、なるほど・・・確かにそれはあり得る、と納得。
どういう事かというと、金返せと思うくらい退屈なのだ。
そして、え、終わっちゃうの・・・って感じで終わっちゃうのだ。

 この映画のオフィシャルサイトに行くと(上記)、色々な分野の人々の感想が読める。
見る前に読んでみたのだが、どのコメントもつかみ所がない。
いったいどういう内容なのかが今ひとつ判らなかった。
けれど、見終わって思う。

『133,920枚の繊細で美しい写真集といえるこの作品は、最後の一枚の為に、残りの133,919枚が存在している。』
                                             
なるほど、アート・ディレクターの石崎圭一氏が書いたこのコメントが、この映画を端的に表しているような気がする。
そして、すべてのコメントのつかみ所のなさが、何故なのかが、見終わって初めて納得できるのである。

 ラストの意外な真実を知るまで、この映画は「だから何?」というシーンの連続だ。
ひとつひとつのシーンは、今までの映画の常識をぶち壊している。
まず台詞がほとんど無い。
映像は常識を越えた至近距離からの主人公バド(ビンセント・ギャロ)のアップ、常識を越えた長い長いカット。
 
 さて映画は、ニューハンプシャーで開催されているフォーミュラーUレースのシーンから始まる。
主人公バド・クレイは、バイクレーサーなのだ。
(かつてバイクレーサーだったヴィンセント・ギャロは、これらのシーンでも一切スタントを使っていないらしい)
そして、次のレース開催地カリフォルニアへと、バドは黒いバンにマシンを積んで、ひたすら走り続ける。

 このひたすら走り続ける映像は、運転席から見たバドの視点、バドの肩越しから見た同じくフロントガラス(しかも汚れている。拭きなさいよ、と言いたいくらい汚れていて気になって仕方ない)越しに見た道路、助手席側から見たバドの横顔の大アップ・・・からなっている。

あれほど見たかった映画なのに、ここで私は不覚にも寝てしまった。
映画館で寝る事なんて滅多にないのに、それでも退屈さに勝てず寝てしまった。
右側の席の女性も寝ていたか。
そして左側の席の男性は、睡魔と戦うべく、何度も何度も体勢を変えて座り直していた。

・・・・恐ろしく退屈なのである。
 
 この旅の途中、バドは彼が幼なじみとして育ったデイジーという女性の実家に立ち寄る。
そこには、デイジーの母と祖母が暮らしていた。
そこで飼われている茶色いウサギはバドの遠い思い出の中のものと全く変わらない。
バドとデイジーが子供の頃のまま、歳をとっていないのだ。

デイジーの母との会話で、さまざまな事実が明らかになる。

長い旅を終え、カルフォルニアに到着したバドは、かつてデイジーと二人で暮らしていた小さな家を訪れ
何度も玄関の戸を叩きデイジーの名を呼ぶ。
そこへ「そこは空き家よ。」という隣家の人の声。
バドは諦めて一度車に戻るが、思い直して玄関の戸にデイジー宛のメッセージを貼り付けそこを去る。

ホテルの部屋でデイジーの連絡を待つバド。
このあたりからもう画面に釘付けだ。
今までの退屈さは一変する。

今でも愛し合っている二人に、過去いったい何があったのか。

謎が解けていく。

 そして、ラスト。
ベッドに横たわり、身体を丸めてじっと哀しみに耐えるバドの姿を見た時、あの退屈だったここまでのシーンが、急に美しくやるせなく光り輝き出すのだ。

 リアルであるとはこういうことなのかもしれない。
他人の心の奥底に潜むものなど、簡単には知り得ないのが現実だ。
けれど、それを知らないでいるうちは、他人の行動なんて、他人の見た景色なんて、かくも退屈で理解不可能なものなのだ。

 はたしてこの映画、名作なのか駄作なのか。
スタッフロールを見ながらも、私は唖然としたままだった。
感動などというものは湧いてこない。  

 けど、映画館を出て渋谷の街のクリスマスイルミネーションを見た時に、急に切なさがこみ上げて来て立ち止まった。
・・・この街の中にも、「喪失」を抱えて道に迷っている人々がいるのだろう・・・。
交差点の信号をひとつ見送って、その風景を写した。

 さて、ヴィンセント・ギャロの映画といえば気になるのは音楽。
今回も60〜70年代の曲を厳選したらしいが、あまりにマイナーすぎて正直私は知らない曲ばかり。
レッドホットチリペッパーズのジョン・フルシアンテがこの映画に曲を提供しているが、映画本編では使われていない。
これらの曲は、ヴィンセント・ギャロが映画の製作中、イメージを作り上げる作業のために個人的に使われたものらしい。
発売されたサントラブラウン・バニーには、5曲収録されているようだ。
彼らが友人同士であることを私は今回初めて知った。
自分の好きな人同士が仲良しで、しかもひとつのものを一緒に創造しているというのは、なんだか嬉しいものだ。


[movietop]



========ネタバレ(見る予定の方は絶対に読まないでください)===========






 












 この映画のタイトルでもある、歳をとらない茶色いウサギの存在は、バドの時が止まっていることの象徴なのだろう。
旅の途中に見せるバドの理解に苦しむ行動と苦痛に満ちた表情、再会した二人のセックスシーンの意外さも、すべて真実を知ると納得がいく。

 すべてがバドの幻覚なのだ。
デイジーはもう、とっくにこの世にいない。

 「喪失」を受け入れられない女々しい男を、ギャロほどリアルに表現できる俳優は少ないのではないか。
彼が見事に演じたのは今回も「絶対に娘の恋人にしたくない男」である。
だけど私は好きなんである。


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