監督 : ウルリッヒ・エデル
(1981西独)原作 : カイ・ヘルマン / ホルスト・リーク 「かなしみのクリスチアーネ」(WIR KINDER VOM BAHNHOF ZOO) 音楽 : デヴィッド・ボウイ Christiane F. Wir Kinder [Original Soundtrack] 出演 : ナーチャ・ブルンクホルスト(クリスチーネ)、トーマス・ハウシュタイン(デトレフ) イェンス・クーパル(アクセル)、 クリスチアーヌ・ライヒェルト(バプシー) "トレインスポッティング"のように薬物を扱った映画だけれど、スタイリッシュでも無ければ笑いの欠片もないひたすら暗い映画だ。 それは実在する主人公クリスチアーネ(実名はクリスチアーネ、映画では何故かクリスチーネになっている)からの聞き書きで構成された原作本に、忠実に作られたセミドキュメンタリーだからかもしれないが、もう一つの理由はここに出てくる麻薬中毒患者たちの年齢の低さのせいだと思う。 クリスチーネは13歳の時にすでに薬物を濫用し始め、14歳になる頃にはヘロインを使うようになる。 そこに至るまでの彼女の行動は、実にあっけない。
13歳のある週末、クリスチーネは友人の家に泊まると嘘をついて初めてサウンド(ディスコ)に行き、そこでボーイフレンドとなるデトレフと出会う。 家の事情もあり退屈と淋しさから彼女は週末ごとにサウンドに通うようになり、同世代や年上の少年少女たちと知り合う。 そこには彼ら独特の価値観があり、その価値観が彼女の空虚な生活に浸透するまで時間はかからない。 決して珍しい展開ではないと思う。 この年頃の子どもたちが、自分の知らない世界を少しだけ知っている年上の少年少女たちに憧れるのはよくあることだ。 ただ、サウンドには薬物が蔓延していた。 そんな中でも、彼らはH(ヘロイン)に手を出すことだけには抵抗感を持っていたし、クリスチアーネも同じだった。
必死に止めようとするクリスチーネだったが、デトレフは彼女を巻き込みたくないあまりに冷たい態度をとり彼女を突き放す。 当惑したクリスチーネは、孤独感から「デトレフと同じになる」決意をする。 Hという壁の向こう側に行ってしまった彼を、きっとクリスチーネは突然遠く手の届かないもののように感じたのだろう、ついに友人からもらったHを試してしまう。 デトレフはHを買うお金を作るためにツォー(Zoo)駅に立って体を売るようになる。 ツォー駅にはせっぱ詰まってお金を手に入れたいフィクサー(麻薬中毒患者)と、彼らを買おうとする人間たちが大勢たまっている。 そんな彼のところに、14歳のバースデーケーキをかいがいしく差し入れに行くクリスチーネ。 デトレフもまた彼なりにクリスチーネを守ろうとしながらも、禁断症状に振り回されるようになる。 そのような状態から、クリスチーネ自身がツォー駅に立つようになるまでたいして時間はかからなかった。 そのころにはすでに、彼らの表情やしぐさは一変する。 特に瞳孔の収縮した目がすっかり輝きを失って生気を失っていくさまを、普通の若者たちからオーディションで選ばれたという少年少女たちがリアルに再現している。 そしてデトレフもクリスチーネも、売春をしては売人からHを買い、そのまま駅のトイレでHをうって禁断症状から逃れるというループを延々と繰り返し、一方友人たちは次々とオーバードースで死んでいくのだ。
死の目前まで追いつめられて初めて、二人はクリーンになる事を決意するのだが、その時の彼らの禁断症状の様子は演技とはいえ、ヘロインの怖さを改めて認識する。 そして何よりも怖かったのは、そんな苦痛を乗り越えてクリーンになった二人が、ツォー駅を通りかかった時、互いに言い訳をしあいながら、今度は絶対にコントロールできる範囲でやろうという約束のもとにHを手に入れてしまう場面だ。 映画のもととなった原作は「われら動物園駅の子どもたち」というタイトルで出版されていて、著者は(Christiane・F)になっている。 日本では映画の公開と同じ年に「かなしみのクリスチアーネ」という邦題で読売新聞社から出版されたが、今はすでに絶版となっている。 また本には所々クリスチアーネの母親の手記が挟まれているのが興味深い。 ツォー駅で二人が再びHを手に入れたところで映画はほぼ終わり、後はクリスチーネの独白で締めくくられるのだが、原作ではそこから始まるまた長い長いヘロインとの戦いが続いていく。 この映画には音楽を担当したデヴィッド・ボウイが本人役で出演している。 クリスチアーネ自身、当時デヴィッド・ボウイの大ファンで、原作の中にも出てくるコンサートに行った時のエピソードが重要な意味を持つ。 映画ではボウイが、かなり大きなスタジアムでコンサートをし、歌うシーンがある。 そのコンサートを"BOWIE"のバックプリントが入った紫のスタジアムジャンパーを着たクリスチーネが見に行くという場面、"It's too late"を歌うボウイを、最前列で思い詰めたように見上げるクリスチーネの感情を抑えた表情はどこか寂しげで胸が締め付けられる。 全体に暗いトーンの映像を、映画の所々でバックに流れる"Sense Of Doubt"が、さらに重たく重たくしていて、果てしなく気が滅入る映画である。(Amazonで試聴可 T5) 唯一の救いは、実際のクリスチアーネは生き残ったということだろう。 そして、こんなに救いのない映画だけれど、私にとっては色々な意味で、心に深く刻まれている1本なのだ。 (2005/2/16)
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