http://www.gaga.ne.jp/dogville/index.shtml 監督 : ラース・フォン・トリアー
(2003年 デンマーク)出演 : ニコール・キッドマン ポール・ベタニー クロエ・セヴィニー ローレン・バコール ジェームズ・カーン 「黄金の心三部作」につづく、ラース・フォン・トリアー監督の「USA三部作」第一作目。
この映画は、「奇跡の海」で主人公の義姉ドド役をやっていた、カトリン・カートリッジに捧げられている。 彼女は「ドッグヴィル」に出演が決まっており、ヴェラの役で出演するはずだったそうだ。 ある貧しい小さな村に、美しい逃亡者グレース(ニコール・キッドマン)が現れる。 彼女をかくまうべきか否か、村人達は集会を開いて話し合いグレースに2週間の猶予を与えることにした。 そのかわりにグレースは労働力を提供し、期限が終わった時村の人々が一人残らず賛成したら、その時こそグレースを受け入れよう…というのだ。 グレースは献身的に働き、人々とうち解ける努力をし、村人達は働き者で聡明な彼女にやがて心を開いていった。 そして2週間後、彼等の決断は…。 映画の中で、この小さな村は丸ごと広い舞台上にある。 映画なのに、すべてが舞台の上で進行するのだ。 しかも、舞台の上は床に白い線が引かれただけの二次元の村。 その線が道を表し、家々の境界となり、番犬は同じく白い線で描かれ、役者達は壁もドアも無い白線の前であたかもそこに壁があるがごとく振る舞い、ドアを開け閉めするジェスチャーをしながら177分間芝居をする。 この、あまりに現実味のない背景で、またしてもサディスティックな、どこまでもサディスティックなトリアーの世界が展開されていくのだ。 この監督は、誰もが「そこにだけは触れない」でいた所を、執拗にいじくり回す。 優しさの背後には、所詮「傲慢」が隠れている。ほら、その証拠に…と人間の心の汚物をこれでもかと並べてみせる。 そして見るに耐えない光景を、最後にほいっ、と観客の前に広げたまま去って行ってしまう。 観客は毎回それをもてあまして、数日あるいは数週間引きずりながら、もうごめんだと思うけれど、次の作品も何故かまた観てしまう。(または、二度と観ないと固く決心するかも知れない。) 「USA三部作」の2作目「マンダーレイ」には、「ヴィレッジ」で衝撃的なハリウッドデビューをしたブライス・ダラス・ハワードと、彼女の父親役でウィレム・デフォーが出るらしい。 ラース・フォン・トリアーとニコール・キッドマンという意外な組合せが、どんな世界を作り上げるのか想像がつかなかったけれど、この映画での彼女の演技を観てこの人の全く別の一面を理解できた思いがした。 監督は彼女のイメージで脚本を書いたのだそうだ。 確かに、ニコール・キッドマンでなければ、あのラストシーンはあり得なかったと思う。 (2004/10/3) 黄金の心三部作と、今作のラストが残す不快感は異質だ。 ある意味ではラストが対照的だ。 主人公のプライドをずたずたに引き裂き、不幸のどん底に突き落としながら進行するいつものストーリーは、今回、ラスト直前の大どんでん返しで逆転する。 ギャングに追われる逃亡者から、一転ギャングのボスの娘へと立場が変わったグレースが、その権力を思う存分行使して思いつく限りに最も残酷な復讐をする。 彼女に同化していた観客が、たまりにたまった屈辱をはらし、復讐心を一気に満たす快感を味わう一瞬だ。 けれど、それは"ランボー"を観た後のようなスカッとしたものじゃなく、グレースが泣きながら村人を惨殺させたように、快感と共にやり場のない不快感がどっしりと心の底に蓄積していく。 皆殺しシーンの果てに、最愛にしてもっとも憎むべき裏切り者を、グレース自身の手で撃ち殺し映画が終わる。 エンドクレジットに突然デヴィッド・ボウイの「Young Americans」が、今観た何もかもをせせら笑っているかのように明るく流れ出す。 「そこの優しくて傲慢で軽薄なあなた!!」…とこちらを指さすみたいに。 |