マザー・テレサ
Madre Teresa
Mother Teresa of Calcutta
http://www.motherteresa.jp/
監督 : ファブリツィオ・コスタ
脚本 : フランチェスコ・スカルダマーリャ マッシモ・チェロフォリーニ
音楽 : ガイ・ファーレイ
出演 : オリヴィア・ハッセー(マザー・テレサ )
    セバスチャーノ・ソマ(セラーノ神父 )
    ミハエル・メンドル( エクセム神父 )
    ラウラ・モランテ( マザー・ドゥ・スナークル )
    イングリッド・ルビオ( ヴァージニア/シスター・アグネス )
    エミリー・ハミルトン(アンナ )
(2003 伊・英)

  当初この映画を見る予定はまったくなくて、別の映画を目当てに映画館へ行ったのだが、その日に限ってチケット売り場は長蛇の列。
結局見たかった作品の開演に間に合わず、第二希望だったこの映画を観ることになった。
そういう巡り合わせが、運命かと感じてしまうほど、予想を超えて、今の私の心境にぴったりの映画だった。

 この映画は、1946年マザーテレサがインドの学校で教鞭をとっていた時代から、1997年に87歳で天に召されるまでの伝記である。
マザー・テレサを演じたのは、昔々、「ロミオとジュリエット」でジュリエット役をやったオリビア・ハッセー。
その当時、まだまだ子どもだった私は、ロミオとジュリエットの恋が刺激的で、あまりに美しい二人にすっかり魅了されパンフレットを何度も何度も眺めてはうっとりしていたっけ。
その後オリビア・ハッセーの出演作品を一度も見たことがなく、その彼女が50歳を過ぎた今、どんなマザー・テレサを演じるのだろう、そう思うと、観たいような観たくないような複雑な気持ちだったのだ。
その彼女が初めてスクリーンに登場したとき、ちょっと驚いた。
それはたしかにあのジュリエットの面影を残した美しいオリビア・ハッセーだったのだけど、同時に私が何度か写真で見たマザー・テレサにそっくりでもあった。
最初のシーン、ストリートに跪き、手を合わせて祈る姿があまりに美しくて、何故だか急に胸が詰まった。

 貧しい人々と共にありたい、それが自分の仕事だと悟ったマザー・テレサは、周囲の反対を押し切って修道院を出る。
彼女の頑固とも思えるような強い意志に、最初は反対をしていた周囲の人々も彼女のかつての生徒達も、一人また一人と彼女のそばに集まってくる。
そしてマザーの仲間は増えていき、1950年「神の愛の宣教者会(Missionaries Of Charity)」を設立し、死を待つ人々のための安らぎの場や親のいない貧しい子ども達の居場所などを作っていった。

しかし一歩進むごとに、今度こそ終わりかというような障害が彼女たちの前に立ちはだかるのだ。
神の愛の宣教者会に送られた多額の寄付金が、実は汚れたお金であった事からスキャンダルとなり、寄付金の返却を求められたり、書類の不備で皆が手作りで建設した建物があっという間に破壊されたり、すべての貧しい人々のために作った「死を待つ人の家」が、キリスト教の洗脳を目的とする組織だと誤解され、ヒンズー、イスラム教徒の暴動にさらされたり、障害は尽きない。
しかし、マザーの機転と、そしてゼロから始めた強さとでも言おうか、失うならしかたないまた最初から始めるまでだ…とでも言わんばかりの潔い受け答えで、窮地を脱する。
そして危機一髪のところで、必ずどこからか救いの手がさしのべられる。
それは、彼女がかつて無償の愛を与えた人からの恩返しだったり、彼女の勇敢さと強い意志に賛同する人々の協力だったり。
どちらにしても、救いの神である彼らに、本当に神が宿っているかのように思え、そのたびに"God bless you."と彼らの頭に手を置き祝福するマザーのあどけない表情が可愛らしく、おもわずともに微笑んでしまう。

セラーノ神父の「貴方は神に選ばれたのか」という問いに、「私は神の手に握られたペンにすぎない」とマザーは答えた。
若いシスターには「私達は海の水の一滴にすぎない」と教える。
常に原点を見失わない、そしてシンプルである…それがマザーの強さのひとつだ。
そして"Charity"という言葉がマザーの口から何度も繰り返されるのをきくたびに、少し手垢がついたこの言葉の原点を指し示されているように思えて、私は嬉しいような後ろめたいような気持ちになった。

"Charity"の原点へ、祈りの原点へ、一番シンプルな愛の形へ、…私達は常にそこに帰るようにすれば、何も迷うこともためらうこともない。

…そう確信しつつ、胸がいっぱいになって映画館を出た。
 

(2005/9/14)

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