osama 監督 セディク・バルマク 出演 マリナ・ゴルバハーリ、 モハマド・アリフ・ヘラーティ、
ゾベイダ・サハール、 ハミダ・レファー (2003 アフガニスタン=日本=アイルランド) (許そう、しかし忘れまい -ネルソン・マンデラ) この映画は、この言葉から始まります。 タリバン時代のアフガニスタンを、一人の少女の実話をもとにして描いた、 タリバン政権崩壊後初めてのアフガニスタン映画である。 悪条件下で撮影されたこの映画が、これほど質の高いものだとは正直観るまで考えていなかった。 被写体との静かな距離の置き方や、余韻の残る詩的な表現の素晴らしさは、 この監督がロシアの巨匠アンドレイ・タルコフスキーの影響を大きく受けていることをものがたっている。 そしてそれが、激しい感情表現を極力抑えた台詞や役者達の表情とともに、深い深い底なしの絶望の中にいつの間にか観ているものを引きずり込みながらも、残虐な物語特有の不快なものを残さない。 主人公の少女の父親も、叔父も戦死した。残されたのは、年老いた祖母と母と彼女のみだ。 タリバン政権下のアフガニスタンにおいて、これは死を意味する。 なぜなら、女は近親の男同伴でなければ外出することが許されず、職に就くこともできないのだ。 一家は食べることもままならず、少女は長かった髪を切り男の子に変装して、働きに出ることとなった。 この事がタリバンに知れたら、恐ろしい刑罰が待っている。 少女は終始怯え、恐怖の中で日々を送っていた。 ある日、カブールの街中すべての男の子達が、タリバンの宗教学校に強制的に招集された。 少女もまた、不安を押し殺してその中におり、男の子達に混ざってコーランの授業、宗教儀式などを学ばされていた。 男の子の姿になる前の少女を、唯一知っていたお香屋の少年は、女の子ではないかと周囲に怪しまれ怯える彼女のたった一人の身方だった。 「男だったら名前は何だ?」 そう囃し立てられて逃げまどう少女に代わって、お香屋の少年は言う。 「こいつの名前はオサマだ。」 オサマ・・・この映画の原題でもあるこの名前は、タリバンが好んで息子達に付けた名前だった。 少年は、彼女にこの強者の名前を付けることで、彼女を守ろうとしたのだ。 そして、これは、この映画に出てくるただ一度の名前でもある。 この映画の登場人物に名前は無い。 監督が敢えて名前を与えなかったのは、そうすることによってアイデンティティを失ってしまったアフガン人を表現しようとしたからだそうである。 騒ぎを起こした罪で少女は罰として井戸に吊され、その力無く泣き叫ぶ声が、少年達の読むコーランと重なって学校に響き渡る。 少女役のマリナ・ゴルバハーリは、ストリートで物乞いをしているときに監督に出会い、その運命的な出会いによってこの映画のヒロインに抜擢された。 マリナは読み書きが出来ず、台詞はすべてその都度口移し的に伝えられた。 マリナが実際に体験してきた数々の悲しい出来事もまた、主人公の少女と重なるものだ。 劇中の少女の表情も涙も、すべてマリナ自身のものだ。 だから彼女の目は観ている者に同情すら許さない激しい絶望を秘めていて、彼女の泣き声は耳を塞ぎたくなるほどに痛々しい。 そして、ついに秘密はばれてしまう。 お香屋の少年は、最後の最後まで彼女を守ったけれど、彼女は捕らえられ、刑務所へ。 「男の子なのに」最後に一言、泣きじゃくりながら彼は言う。 誰にもどうすることも出来ない。誰も少女を守ることなど出来ないのだ。 その後、タリバンにより裁判にかけられた少女は、死刑を免れることは出来たものの、さらに過酷な運命に翻弄されていく。 刑務所の中で縄跳びをする彼女の幻想の場面で、この映画は突然ラストを迎える。 その姿は、この映画の中で少女が見せる唯一年相応の行動でもあり、過酷な運命から彼女の心が逃避する場所でもあるのかも知れない。 無表情でひたすら縄跳びを続ける少女の姿。 規則正しく床を打つ縄の音と少女の足音とともに、何の希望も見出すことを許さないままこの映画は終わっていく。 この『アフガン零年』という映画と少女マリナを、撮影当初から取材していたNHK報道局のディレクターがいます。 以下はこのディレクターが記した、『虹のない風景』という取材ノートからの引用です。 2002年10月X日
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2004/5/19 [movie top] |