パッション
http://www.herald.co.jp/official/passion/index.shtml(オフィシャル)
http://www.thepassionofthechrist.com/splash.htm(US版オフィシャル)





監督 : メル・ギブソン
出演 : ジム・カヴィーゼル(イエス・キリスト) 
  マヤ・モルゲンステルン(母マリア)
  モニカ・ベルッチ(マグダラのマリア)
(2004年 米)

  イエス・キリストが捕らえられてから十字架に磔になるまでの最後の12時間と復活の物語であるが、公開前から、凄惨なシーンが賛否両論の議論を巻き起こしたり、ユダヤ教信者との論争になったり、上映中に心臓発作でなくなる人が出たり…と話題の多かった映画である。

 見なければ良かった…と見終わって丸二日以上たった今も少しそう思う。
いくつかのシーンが目に焼き付いて離れない。
ふと気づくと、この映画のことを考えている。
胸が締め付けられるような感じが、まだ残っている。
重苦しい気持ちが後を引く、安易に見ない方がいい映画であることは確かだ。
ただ、どこかに言葉に表せない神々しい清々しい何かが植え付けられたようにも感じる。
それが、逃げ出したくなるような映像とどこかで繋がることが出来れば、この映画はその人にとって是なのだと思う。
そうでなければ、ただの残酷物語でしかないだろう。

 最後の晩餐の後、ゲッセマネの園でこれから我が身に起きる受難(パッション)を思い恐怖と戦う予言者イエス…この冒頭のシーンから、非常に人間くさいイエスの姿が描かれる。
聖書の記述と史実とをリアルに映像化することにこだわったというメル・ギブソン監督は敬虔なキリスト教徒としても知られており、この映画を作り上げることは長年の彼の目標であり夢だった。
私財を投じてまで監督が伝えたかったものは、なるべく真実に近い形で再現されたキリストの受難だったのである。
監督自身がもっとも敬愛するイエス・キリスト、神の子でありながらも同時に人としての肉体を持ったイエス・キリストのリアルな苦悩する姿にこだわったのは、それが決して忘れ去られてはいけない、時と共に薄れていってはならない真実だったからだろう。

「神よ、お許しください。この人達は自分が何をしているのかわからないのです。」
十字架にかけられてからもなお、イエスは自分を迫害する人々のために祈る。
自身の教えを、こうしてことごとく実践してみせるわけだけれど、とりたててキリスト教徒でもない私のような人間にとっては、まったくピンと来ない聖書の表現ではなく、目の前の凄惨な映像として突きつけられて初めて、イエスの成し遂げたことがいかに困難なことであったのかに思い至る。

 それにしても、人の心とはなんと恐ろしいものだろう。
人間は色々なものを恐れるけれど、人間自身の心ほど残酷なものはない。
人の心ほど底なしに恐ろしいものはない。
キリストを迫害した人々の心の中に在る残虐性は、いったいどこから来て彼らに宿ったのだろう。
イエスはそれらをすべて彼の体一つで引き受け、そして昇華し、復活した。
生身の体で…。
これほどの受難(パッション)を…。
まさにこの事を監督は我々の目の前に差し出したかったのだと思う。

このようなキリストの描き方について、否定することも目を背けることも出来るし、それも一つの信仰の形かもしれない。
信仰とかキリスト教とか聖書とかいう話になると、私には知識も考えも及ばないことが多すぎるが、そもそもこの映画がもとで、宗教同士が対立したり、上映を阻止しようとしたりするのだけは、あまりに愚かではないかと思う。
キリスト教徒であれ、ユダヤ教徒であれ、イスラム教徒であれ、仏教徒であれ、彼らが敬愛している神仏から人々を遠ざけてしまっているのは、時として彼ら自身のように思えることも多々ある。

キリスト教とキリスト自身との間にあるギャップ、○○教徒と名乗る人々の言動と彼らの敬愛する開祖達が成し遂げた偉業との間にあるギャップ、長い長い歳月が作ってしまったその溝を、監督は今改めて埋めようと、この映画に役者として監督としての生命をかけたのかもしれない。

 
■この映画の内容はキリスト教徒にとってはなじみ深いストーリーとエピソードを観客が予備知識として持っていることを前提で描かれているようです。
聖書にはあまり馴染みが無い、事前に情報を仕入れておこうという方は、こちらで大まかな登場人物や時代背景について解説されています。→パッション 鑑賞前にこれだけは押さえておこう!
こちらは牧師さんが運営するサイト。コラムが面白いです。→石井希尚プロデュース「パッションサイト」

(2005/1/16)

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