シャイン 脚本 : ジャン・サルディ 音楽 : デイヴィッド・ヒルシュフェルダー 出演 : ジェフリー・ラッシュ(デヴィッド・ヘルフゴッド ) ノア・テイラー(若き日のデヴィッド) アレックス・ラファロヴィッツ(幼い頃のデヴィッド) アーミン・ミューラー・スタール(デヴィッドの父ピーター) リン・レッドグレーヴ(デヴィッドの妻ギリアン) ジョン・ギールグッド(セシル・パーカー) グーギー・ウイザース(キャサリン) ソニア・トッド(シルビア) (1995 オーストラリア) 雨の夜、閉店後のバーのウィンドウを叩くびしょ濡れの男。 一人で何か呟き、店の人がドアが開くと店内の人々に、次々と親しげに話しかけ、しゃべりまくり、ハグする。 人の良さそうな、愛想の良い、けれどどこか怯えた様子のこの男に、バーの人々は訝しげな様子でとまどっている…。 これが、ピアニストのデヴィッド・ヘルフゴッドが、心を病んでからの姿だ。 デヴィッドの父ピーターは、親に阻まれて果たせなかった音楽家としての夢を幼い息子に託した。 父の期待に応えて、ピアノの天才少年と呼ばれるようになったデヴィッドはついにアメリカへの留学のチャンスを手にするが、父は渡米を許さない。 デヴィッドは最初のチャンスを断念することになる。 「私の愛は一番強い。」と言って息子を抱きしめるこの父親は、おそらく自分でも気づかないうちに愛という言葉で息子の自立を阻止し、音楽家としての夢を残酷にもつぶされた自分と比較して、「おまえは運がいい」「どんな時も勝たなきゃならない」と息子に繰り返し、またあるときは「人生は残酷だ。」と恐怖を植え付ける。 心優しい息子は、反発をしてもまた結局父の胸に戻る。 けれど、次にデヴィッドに訪れたチャンス、イギリスの王立音楽院への留学を彼はどうしても諦めきれず、とうとう暴力で阻止しようとする父の反対を押し切って、デヴィッドは家を出る。 イギリスでセシル・パーカーに師事したデヴィッドは、師の愛情と真剣なレッスンによってめきめきと上達し、やがてコンクールでラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を完璧に演奏するまでに成長し才能を開花させた。 それなのに、その直後に心を病んでしまうのだ。 ラフマニノフの3番は、彼が子どもの頃から父に「いつかこれを弾きこなして喜ばせてくれ、みんなに自慢できるように。」といわれていた曲だった。 デヴィッドは自らコンクールにこの曲を選んだのだ。 この映画は、今も心の病と闘いながら演奏活動を続けるピアニスト、デヴィッド・ヘルフゴッド氏をモデルとしており、スコット・ヒックス監督がヘルフゴッド夫妻に長期綿密な取材をし、それをもとに作られた。 デヴィッドを心の病から少しずつ解放したのは、妻のギリアンだ。 映画の中では残念ながら、彼らが出会ってからデヴィッドが再び大きなステージに立つまでの過程がいまひとつ描ききれていないように思う。 デヴィッドの根深い心の不安を根気よく和らげ、彼の才能を再び輝かせたギリアンとの興味深い軌跡は、こちらのNHKのサイトで知ることが出来る。 彼らの近況や、写真、インタビューなど、映画と併せて見るとより深い理解が出来ると思う。 冒頭のバーのシーンから、ギリアンとの出会いのあたりまで、心を病んだデヴィッドがしばしば独り言のように繰り返すのは、幼児期から家を出るまでの間ずっと父に言われ続けた呪縛の言葉だ。 一人の才能あふれる芸術家の人生を輝かせるのも、曇らせるのも、周囲の環境が大きいということを再認識する。 デヴィッドの才能に対する思いの強さは同じだとしても、父親と、妻ギリアンとでは、まったく対照的だ。 彼らは、どちらも愛という言葉を使っているけれど、縛り付けるものなのか解放するものなのか、条件付きなのか無条件の愛なのかという点において、まったく意味が違っている。 正直、私は映画で描かれるデヴィッドの両親には腹が立ってしかたなかった。 ただ、思えば父ピーターの心にも、そのまた父からの呪縛と戦争体験とが暗い影を落としていたのは事実のようだ。 この世界が本当の意味での愛に満ちる日が来ることを願うのは、あまりに非現実的かもしれないが、仮にそんな日が来たとしたら、すべての人の才能や人生はもっと眩しく光り輝くのだろう。 2005/3/11 |