サラ いつわりの祈り
THE HEART IS DECEITFUL ABOVE ALL THINGS
http://www.sara-inori.jp/
監督・脚本・出演 : アーシア・アルジェント
原作 : J.T.リロイ
出演 : アーシア・アルジェント(サラ)
    ジミー・ベネット(幼年時代のジェレマイア) 
    ディラン&コール・スプラウス(少年時代のジェレマイア)
    ピーター・フォンダ(祖父)  
    オルネラ・ムーティ(祖母)
    ウィノナ・ライダー(精神科医)
    マイケル・ピット(バディ)
    ジョン・ロビンソン(アーロン)
    マリリン・マンソン(ジャクソン) 
音楽 : ソニック・ユース    ティム・アームストロング(ランシド)    マルコ・カストルディ
(2004 米)

 巣鴨子ども置き去り事件をテーマにして話題になった「誰も知らない」という映画が記憶に新しいが、この映画の中に出てくる子どもを置き去りにした母親と、本作に登場する母親サラをついつい比較して見てしまう。
両作品とも、登場人物を虐待者と被虐待者、善と悪に色分けすることをせず、特定の立場に特別な感情移入をさせることなく描いている。
不完全で未熟な母親と、そんな母を持った子どもの姿を数歩引いたところから描いているにもかかわらず、どちらの作品も登場人物とカメラの間に感じる距離感とは対照的に、両監督の心は母親と子どもの一番近くに、同化するほど近くに寄り添っている暖かさを感じる。

この映画の監督のアーシア・アルジェントは、サラという役を演じながら、また同時に脚本も書くという作業を通して、この女性をきっと内側からも外側からも見つめ続けたのだろう。
この物語の原作者J.T.リロイは、サラが15歳の時に産んだ息子、そして波乱に富んだ子ども時代を送った主人公ジェレマイア本人とされていた。
しかし、2006年1月のニューヨークマガジンの記事で、J.T.が実在しない人物であることが暴露された。
したがって実話であるはずのこのストーリーは、実はフィクションであったことが明らかになったのである。
この小説はJ.T.がソーシャルワーカーのすすめで、全く個人的に自分自身のセラピーのために書いたといわれていたが、小説の本当の原作者は彼をサポートしたソーシャルワーカーということになっていたローラ・アルバートという女性なのだそうだ。
では、マスコミに登場していたあのブロンドのウィッグと大きなサングラスのJ.T.は一体誰なのかといえば、ローラ・アルバートの知人であるサバンナ・ヌープという女性なのだそうだ。

 映画の内容に話を戻そう。
ジェレマイアはサラやサラの男達から様々な性的、肉体的、精神的な虐待を受けながら、それでも母親を気遣い、支え、彼女が傷つけば、「僕が守る」と抱きしめ、サラの寂しさを癒そうと、彼女の髪をなで慰める。
そんな生活の中、当然彼の心は歪んで行くのだけれど、そもそも歪んでいるのはサラも同じ事なのだ。
彼らが、親子で同じ格好…親指をしゃぶりながら…眠る姿が印象的だ。
聖職者であるサラの父親や母親もこの話に登場するのでそのあたりはとても解りやすい。
歪みは確実に連鎖している。
しかし、この映画はそういった虐待連鎖、親子関係云々を論じようとしているのでも、問題提起しているのでも無く、ただ欲望に飲み込まれるばかりの弱い大人たちと、その傍らで育っていく子どもの姿をありのまま描いている。
さまざまな歪みの上に積み重ねられ、もはやどうにもならなくなった人生の果てに、苦しみもがきながらもさらに弱いものを傷つけずにいられないサラやその周りの大人達。
その環境の中で、子どもなりに順応し、精一杯生きていこうとするジェレマイア。

暴力、倒錯した性、ドラッグ、売春、にまみれ、ゴミ箱の中のハンバーガーを食べて生きてきた、その彼が産み出した言葉だとしたら、この小説は意外なほど美しい。
監督のアーシア・アルジェントは、J.T.の真実を初めから知っていた確信犯だという話もあるが、多くのミュージシャンや役者達が、JTの世界に共感し賛辞を送ったのは、当然そこにあるはずの憎しみや恨みを彼が別のものに浄化してしまう「現実」に惹かれたからだろう。
この小説を誰が書いたのか、実話なのかフィクションなのか…などは、ある意味どうでも良いことではあるが、しかしJTの人生にどこか自分自身を重ねた人々、そして現在のJ.T.の姿を、支えや希望にしてきた人々にとって、ローラ・アルバートの裏切りは大きな罪ではないかと思う。
JTリロイを友人として信じていた人々への裏切りも然りだ。

ただ、このような大きな嘘が、ここまでまかり通った1つの理由として、この小説や映画は、良い意味でも悪い意味でも客観性があまり感じられない。
冒頭に書いたように、社会的な問題としての教訓的な視点はまったく見受けられないし、ストーリー展開や登場人物の言動、性格設定がとても不安定だ。
実際現実というのは混沌としていて、テーマなどというものは到底無いし、善悪も、愛も憎しみも、暴力も抱擁も、あまりに複雑に絡み合っていて、だからこそ余計悲劇的なのだ。
この物語には、そういうリアリティがある。

 原作「サラ いつわりの祈り」は、男娼となってからの話を書いた1作目に続く2作目なのだが、時代はより溯っている。
アーシア・アルジェントは、この原作のイメージをほぼ完璧に映像にしているが、多少観念的な描き方になっている部分や、多分映像には出来なかったであろう部分があるので、原作を読んでから映画を観ると解りやすいのではないかと思う。
また、ミュージシャン、マリリン・マンソンの素顔の演技を観ることが出来るのも貴重だ。

 アーシア・アルジェントのコメントどおり、「心をオープンにして」固定観念をいったん捨ててから観ることをお勧めする。



 


(2005/5/19)


New York Magagineの記事について、参考サイト
YOHAN BOOK NET
EYESCREAM
(2006/3/7一部書き足し)

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